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青年劇場 小劇場企画No.21 「原理日本」 雑感および覚書➁

これ(青年劇場 小劇場企画No.21 「原理日本」 雑感および覚書➀ - neo2600の日記)の続きです。

 

●歴史上の人物を描くこと

 「猿田彦市」はたまに「ひっくりかえ」ってしまうことがあるそうです。それは「てんかん」を意味しています。激高したり、興奮するあまりに「ひっくりかえ」ってしまうという設定です。劇中では数回はこの発作でこの主人公の意識が失われました。そのたびに会場からは笑い声が聞こえたのには、正直に申し上げて唖然といたしました。そういった病気を笑いの種にしてしまう脚本と演出に恐怖を感じます。蓑田胸喜さんは実際には「てんかん」のように急に卒倒してしまうことがあったとは伝えられていませんが、たとえこれが事実であっても、戯画化してしまうのは、創作の暴走です。戯画の対象が「ファシスト」や「右翼」であれば、手段を選ばずにどんなに貶めてもよいのでしょうか。

 

 創作の暴走はまだ続きます。「猿田彦市」は突発的に婚外子の「ゆり子」の首を絞めにかかる場面があります。ここで家族内で暴力を振るう人物としての刷り込みが観客になされてしまうのです。放映されることで衆目に晒されるテレビドラマとは違い、劇場では全てが一過性のものと考えても差し支えないでしょう。舞台に立ち会う観客は脚本家や演出家の意図を普通は反芻の余地もないままに受け取ります。録画で見直すことは通常は出来ません。

 

 「猿田彦市」は完全な創作上の人物ではありません。蓑田胸喜さんというモデルが存在します。そして、蓑田胸喜さんにも家族がおられるでしょう。このことを忘却し、創作の看板のもとであれば何事も許されるのでしょうか。彼等が「言論粛正」をしたから、それ以上の報いを受けるのが当然なのでしょうか。結局は、久板栄二郎さんの描いた『原理日本』は、作者個人の問題意識の投影でしかありません。これにより、本体そのものの原理日本社とは何であったのか、そして蓑田胸喜さんとはいったい何者であったのかという肝心な課題がますます遠ざかっていってしまうのです。好事家のあいだだけで共有し、完結してしまう芸術は、全体社会への訴求力は低くなりがちです。芸術は個人間で共有される私的のものばかりではなく、個人と社会とを接続する公的なものでもあり得ます。歴史的な事柄を題材にする場合は、後者のほうに比重が大幅に傾くことになるでしょう。

 

 ●小ネタ

 出征する青年のために日の丸の旗に寄せ書きをする場面があります。「川波茂雄」が自身の氏名を普通に筆書きしたのに対し、「浅香清嶺」は平仮名で書いていたのは面白いと思いました。三十一文字を詠む歌人という性格に没入させるためなのでしょうか。「猿田彦市」は米英撃滅と書いた横に氏名を書き付けたようです。

 

 「猿田彦市」を演ずる島本真治さんは唾を飛ばす話し方をすることで、激越な印象を体現していました。「猿田彦市」が膝を崩してうなだれる場面で、演じる島本真治さんが何やら口をモニュモニュとしていたように見えました。そのときは思念する様子を表現しているのかと感じましたが、今から考えると唾液を生産していたのかもしれないと思いました。実際のところは役者さんのみぞ知るです。

 

 「猿田彦市」の自宅にある神棚と思しき小道具には埴輪や日本刀が添えられてあります。埴輪があるのは久板栄二郎さんの脚本と変わりありません。「神ながらの道」と大書された掛け軸、そして、お榊もお供えされています。それらは全てが新聞紙でくるまれてあるか、あるいは灰色がかった彩色が施されているようです。日本刀の刀身のほうは金属であり、抜いたときには光り輝いていました。神棚の前に埴輪が置かれている場景を見るのは初めてです。

 

 

 「猿田彦市」は暮らし向きはよいようです。「ひがしくぜ」という人物から貰い受けた邸宅に住んでいたり、「宮中に参内せねば」と言う台詞があったり、陸軍からの機密費を得ていたりとしています。ですが、実際の蓑田胸喜さんはそのように満帆な生活を送れていたのかというと必ずしもそうではないようです。「ひがしくぜ」とは皇族の東久世家を意識していると思われますが、細川護立さんのような華族との繋がりは考えられても蓑田胸喜さんには皇族との接点は認められません。宮中にももちろん参内出来る立場ではないのです。陸軍からの機密費にしても、間接的にその存在を匂わせる資料があるばかりで、肝心なところは推測するしかないのが現状です。確かに限りなく黒に近いグレーではありますが、実相を確定するには未だ足りない要素があります。体制対反体制、権力対反権力といった図式に着目するあまりに、脚色が行き過ぎてしまっている箇所が部分的に存在するのではないかと感じました。