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青年劇場 小劇場企画No.21 「原理日本」 雑感および覚書③

これ(青年劇場 小劇場企画No.21 「原理日本」 雑感および覚書➁ - neo2600の日記)の続きです。

 

 

●「歴史に学ぶ」?

 実在する歴史上の人物を描くにあたっては、NHKの大河ドラマが好例ですが、最低限の事実性の下敷きが存在する必要があります。そうでなければ、作家個人の問題意識や希望的観測で歴史を上書きすることに繋がってしまうからです。久板栄二郎さんが最初に脚本を完成させてから四十七年も経ちました。蓑田胸喜さんと原理日本社についての研究はこのあいだにかなりの進展を見たと指摘し得ると思います。にもかかわらず、青年劇場で今回に上演されたものは若干の台詞の変更はありましたが、全体的な内容には改稿はないようです。恣意に基づいてると言われても仕方のない事実誤認は創作の価値に影響を及ぼし、作家個人の自己満足を招来するばかりです。お客さんが喜んでくれているのだから良いじゃないか、問題提起が出来ているのだから些細なことは良いじゃないかというのは、畢竟は言い訳に過ぎません。それを言ってしまいますと歴史上に実在した人物をモデルとする意味が消失してしまいます。歴史に学ぶとはそういうところから始まるのではないのです。

 

 演出なされた大谷賢治郎さんはツイッターのご自身のアカウントで「演出した作品が、今の日本に酷似しずきて怖い。原理日本。」と書いておられます。二月二十日のツイートです。ですが、四十七年前の脚本の段階で疑問符は多く、今回の再演でそれに修正が施されたと見ることは難しいと言わざるを得ません。このような創作を現実に同類項化する暴挙を敢えてする結果に陥ってしまっています。

 

 会場で配布されたパンフレットに、大谷賢治郎さんは次にように書いておられます。「歴史に学ばない為政者が世界を動かし、恐ろしい未来を築いていく、それはもはや仮定でも仮想でもないのだ」。これは次のように言い換えることが出来ます。「歴史を学べない作家が、観客を動かし、取り返しのつかない未来を築いていく、それはもはや仮定でも仮想ではないのだ」。

 

 現代はファシズムの時代であると指摘されます。ただ、これまでにもそのような指摘はたびたび存在しました。吉田茂さんのときにもファシズムの復活が叫ばれました。中曽根康弘さんのときもファシズムへの警戒がありました。ですが、現在から過去を振り返るに、それらの批判や指摘が招いたのは何だったのでしょうか。ファシズムであると言いさえすれば事足りてしまう思考の硬直化ではなかったでしょうか。安倍晋三さんもファシズムだと言いますが、結局は過去の事例と同じところに収まるでしょう。「現代の日本は戦前戦中と似ている」。この使い古されたフレーズの連呼で、得られたものは何もありませんでした。そのフレーズで、恐怖がその都度に煽られても結局は何も起こらない。こういったことが何度も続きました。これからも続くでしょう。

 

 

●「狂気」とは何か

 

浅香「滝川なんかとは違って美濃部と云えば、奧さん、枢密院議長一木喜徳郎さんの直系ですよ。いまの官界政界には、大学で美濃部憲法を学んで来てるものも大勢いますよ」(久板栄二郎『原理日本』)

 

 天皇機関説美濃部達吉さんは改名されずに登場しています。劇中においても語られているのは、その美濃部達吉さんの学説が当時の政府の省庁の人員にあっては主流をなしていることです。「猿田彦市」たちの滑稽さも多分に含んだ狂気がそういった従来の学説を覆し、戦争への地ならしをしていったというのが戯曲『原理日本』の骨子でもあります。ですが、滑稽さの極まる狂気で社会の通念が覆せるほどには簡単ではありません。脚本においてはその問題点を、軍部の尻馬に乗っただとか、日本人の心性の問題が然らしめただとかで処理しようとしています。

 

 複雑多岐に亘る事柄の理由を「猿田の狂気」に単純化してしまうのは、果たして正しいことなのでしょうか。敗戦前の日本を批判し、返す刀で現代に非難を加えるのに好都合な「スケープゴート」としての役割が、「猿田彦市」の「狂気」に押し込められてしまっているような感じがいたします。「どうして日本は戦争に向かってしまったのか」という疑問がこの「スケープゴート」で解けるのでしたら、それほど簡単なことはありません。

 

 久板栄二郎さんの戯曲『原理日本』は、四十七年前の劇団俳優座で初演を飾りました。四十七年前の昭和四十五年と言えば、学生運動が華やかであった時代です。全国の大学で闘争運動が組織され、数多くの文化人はこれを支持していました。現在においてもメディアでご活躍なされている文化人でも学生運動を経験した方々は意外と大勢おられます。学界のほうは、現在とは異なり、マルクス主義が主流でした。そういった時代に、久板栄二郎さんは書き下ろされたのです。言わば、ある種の「余裕」があったのでした。対する今回の青年劇場の公演の背景となる社会は、四十七年前とは打って変わっています。往年と比べると学生運動は学生とは名ばかりの活動家が爪に火を灯すように細々と営んでいるにすぎないのが現代です。国会も一強他弱の状況が続きます。このようななかで、延々と敗戦前なるものの反省をし、ファシストがいけなかったのだ、人民の理性が敗北したのだと相も変わらず唱え続けるのは、どのような意味を持つのでしょうか。